出水兵児修養掟 解説

更新日:2017年4月18日

解説

教育は百年の計といわれますが、学校教育が制度としてなかったころ、薩摩藩では子弟たちを郷中教育で心身を鍛えていました。
私たちの出水市でも、郷土の先輩たちの手により独特の学風や士風が醸成され、伝統として受け継がれ、県下に名だたる”出水兵児(いずみへこ)”たちを育んできたようです。

薩摩の代々の藩主たちは「薩摩を守るのは城でなく人である」と考え、国防の重点を士民の訓育においてきました。
このことが江戸時代の末期から明治維新の大業を推進する最大の原動力となり、天下がせん望する機多の人材をわが鹿児島から輩出したことにつながっていったといわれています。

ところで、出水兵児の「兵児(へこ)」とは青少年のことで、数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び、それから20歳の8月までを「兵児ニ才(へこにせ)」、30歳までを「中老」と、3つに区分していました。
兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児ニ才」におかれたことはもちろんです。
郷中教育はグループ別に、また、青少年別に行われましたが、その運営は年長者がそれぞれの組を率いて、その土地の風土や伝統に適した厳しいスパルタ教育を行っていたようです。
教育の中味は、ずいぶん厳しい「しつけ教育」でしたが、厳しいなかにも特に幼少者に対しては慈愛をもってあたったようです。また、年中行事の活動のなかには、慰安の含みもあったようです。
教育の方法は、各郷中で独特のものが工夫され、会員相互がなんでも心から話しあえる会でしたが、反面、各自が日常守るべき規約を定めて、違反した人は、お互いに反省し、討論のすえ処罰するという厳しいものでした。

このグループを「咄(はなし)相中」、規約を「二才咄格式定目」と呼び、この規約にしたがって山登りや水練、剣術などの訓練に励み、酒色や怠慢をいさめ、武勇や信義を尊ぶ気風を養成していったようです。
また、この規約のほかに各郷中には、青少年の生活規範ともなる「掟(じょう)」をつくって座右の銘とし、朝夕、朗読させて実践させました。

出水は肥後と国を接する薩摩の表玄関にあたり、国境の守りとして古来から、最も尚武の地でした。その出水で300年以上も昔、名地頭とうたわれた山田昌巖は、厳しい訓練によって出水兵児の士風を確立したといわれています。
その後、強いものとして天下に知れ渡った出水兵児ですが、その「精神」は代々子孫に伝えられ、今日なお、その余香を残しています。
出水の郷中教育の掟が出水兵児修養掟であり、他の郷中のそれと比較して優れているといわれた点は、武勇のほかに「ものの哀れ」を求めたことであり、二才たちがこれを実践したことだといわれています。

時代は変りましたが、この掟の「士」を「人」に置き換えてみると現在でもなお、生き生きとした私たちの処世の道を示してくれるようです。

お問い合わせ先

文化スポーツ課

出水市緑町1番3号2階

電話:0996-63-2108

FAX:0996-63-1331

メール:bunkazai_c@city.izumi.kagoshima.jp

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