出水市の歴史

更新日:2016年11月1日

古墳時代

 弥生時代が終わり飛鳥時代の間の3世紀後半から7世紀、日本列島が初めて国家としてまとまりをもっていった時代を古墳時代と言います。 
 この時代の出水を代表する遺跡に溝下古墳があります。米ノ津川の左岸の標高約20メートルの洪積台地の緑辺部に位置し、昭和8年畑地の基盤下げを行う最中に発見されました。
 溝下古墳からは、短甲、金環、轡などが出土しており、東京国立博物館に収蔵されています。
 墓の形態は地下式板石積石室墓です。この古墳の形態は南九州独自の墓制で、熊本県天草・芦北地方や出水市など八代海沿岸部、熊本県の球磨川上流域部、川内川流域部で見られます。
 

溝下古墳
短甲

 

飛鳥・奈良・平安時代

 天皇を中心とした政府が唐の制度に習い律令国家の建設を進めていく中、地方に国-郡-郷とする行政単位を置いて地方を治めていき、大宝2年(702)頃に薩摩国が設置されました。  出水という地名が初めて登場する文献は養老4年(797)に成立した続日本紀で、宝亀9年(778)に遣唐使船が出水に漂着したとの記事です。この頃の出水郡は10世紀前半書かれた「和名類聚抄」に郡の構成は5郷で山内(やまうち)・勢度(せと)・借家(かしや)・大家(おおや)・国形(くにかた)があったとされています。 少し時代を遡りますが、天平8年(736)の薩麻国正税帳に郡司名と書いてある内容から出水のものとされている資料があり、郡司名を見ると大領という役職に肥君等の名が見られ、古墳時代の墓制などを含め、早い時代から出水は肥後の影響化にあったとされています。 平安時代の出水のことは、資料が少なく唯一加紫久利神社と紫尾神社が官位を授けられたことが延喜式に登場しています。
 

鎌倉時代

 奈良時代に制度化された土地制度である班田制は平安時代末期には衰退し、代わって全国各地に荘園ができてきました。南九州最大の荘園である島津荘(しまづのしょう)は、万寿年間(1024年~1028年)頃、大宰府の大監(だいげん)の役職にあった平季基(たいらのすえもと)が現在の都城市郡元付近の土地を開発し、宇治の関白藤原頼道(ふじわらのよりみち)に寄進して成立しました。 島津荘の拡大により、出水の地域もこの島津荘に組み込まれていたことが天承2年(1132)に書かれた「平安遺文」の「僧経覚解」(そうけいがくげ)に書かれており、その中には、「出水」を「和泉」と表記してあります。 平家が文治元年(1185)に壇ノ浦の戦いで滅亡した同年、惟宗忠久(これむねただひさ)が島津荘下司職に、その後島津荘惣地頭、建久8年(1197)には薩摩・大隅の2か国の守護職に任命され島津氏を名乗りました。 忠久は、高尾野町江内の木牟礼に守護所を設置し本田氏を派遣し、この地を拠点として国の運営に当たらせました。野田町にある感応寺も忠久の命により、建久5年(1194)に創建されました。 島津家初代忠久、2代忠時(ただとき)は鎌倉で没し、3代久経(ひさつね)が元寇の折り初めて薩摩に下向しました。4代忠宗(ただむね)の時、薩摩川内市の碇山城を拠点に薩摩国の経営に当たりました。 この頃の出水は、和泉郡と山門院に分かれており、建久図田帳には在地領主として和泉郡は和泉小太夫兼保、山門院は山門秀忠の名前があります。和泉小太夫兼保は、安和元年(968)に伴兼行が薩摩国の掾として入国し、その子孫が住み着き、大隅地方に繁栄した肝付氏の一族であると言われ、山門秀忠は、肥前国(佐賀県)の神崎庄の本領主であった平種方の子孫であり、両領主は「内裏大番役支配注文案」に名前が記載してあることから、鎌倉幕府の御家人になったことわかります。

感応寺

南北朝時代

 1333年に後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために挙兵すると、島津家5代貞久は足利尊氏の誘いを受け討幕に貢献しました。その後、後醍醐天皇の親政が始まりましたが、わずか2年後の建武2年に尊氏が中先代の乱に乗じて挙兵すると貞久も尊氏に従いました。尊氏は1336年に光明天皇を擁立し北朝(武家方)を開き、後醍醐天皇は吉野へと赴き、南朝(宮方)を開きました。この南北朝時代は約60年間続くことになります。 出水では和泉荘の惣地頭であった島津忠氏(島津氏4代忠宗の子)は、和泉氏を称し、尊氏と弟の直義(ただよし)との対立である観応の擾乱(1350年~1352年)までは有力な一族として貞久に従っていましたが、その後は直冬党(尊氏の子で直義の養子)に属し、一族は直冬党と共に豊後方面に移りました。 また、出水の在地領主の伴姓和泉氏一族は有力な南朝の勢力(宮方)として島津氏に抵抗しており、1354年~1355年にかけて島津氏と和泉一族を中心とした戦いが尾崎城、木牟礼城を舞台に行われました。  この混乱の中、1363年に貞久は息子師久(もろひさ)に薩摩国の守護職(総州家)を、氏久(うじひさ)には大隅国の守護職(奥州家)を譲り、両家は協力して南北朝の動乱を切り抜けてきました。  応永2年(1395)に今川了俊が九州探題を解任され外敵がいなくなると、島津の両家は対立していくようになりました。幕府は初め総州家の伊久(これひさ)、息子の守久(もりひさ)を擁護しましたが、応永16年(1409)に幕府は奥州家の元久(もとひさ)に薩摩国守護職を任命し、元久は薩摩・大隅の守護職となりました。  元久の後を継いだ弟の久豊(ひさとよ)は、応永23年(1416)に総州家の久世(ひさよ)を自害に追い込みましたが、同年9月に久世の子、久林(ひさもり)は川辺城で挙兵し、久豊は苦戦を強いられ和睦しました。  この戦いで、氏久・元久親子が豊後から召し抱えた島津和泉氏4代久親(ひさちか)の子直久、忠次兄弟は久豊に従い戦死し、島津和泉家は断絶しました。時代は下りますが、延享元年(1744)第5代藩主継豊(つぐとよ)が弟の忠郷(たださと)に和泉家を再興させ、今和泉と称して島津氏の一門としました。今和泉家からは、徳川第13代将軍家定(いえさだ)の御台所となった篤姫が出ています。  その後、久林は応永27年(1420)に祖父守久のいる木牟礼城に入りましたが、応永29年(1422)に久豊、忠国(ただくに)親子に攻められ、落城し総州家は滅びました。木牟礼城のある山門院は、戦いに加勢した肥後相良氏に与えられ、相良氏の家臣である村上備前守が城代として25年間治めたことが相良氏の史伝である「洞然居士状」に書かれています。  野田町の熊陳はこの戦いの時に相良の球磨勢が陣を置いたことに由来すると言われます。

 

薩州島津家の時代

 総州家が滅びた後、享徳2年(1453)に忠国の弟である用久(もちひさ)が阿久根、野田、高尾野の諸城を収めて城山に水府ヶ城を築き薩州家を興し、以来一族は7代、140年間にわたり、出水の地を治めました。 薩州家初代の用久は守護忠国に代わって各地で起っていた国一揆と呼ばれた領内の反乱の鎮圧にあたりました。  2代国久は、出水の他に加世田、川辺、山田、鹿籠(かご)を支配し、京で起った応仁の乱が全国に拡大する中、時には宗家の忠昌(ただまさ)に背きましたが、後に従いました。国久は応仁の乱の戦火を避けて薩摩に来ていた学僧桂庵に師事し、韻書・漢字辞典である「聚分韻略」(しゅうぶんいんりゃく)を出水で出版しており、学問の普及にあたりました。  薩州家3代重久(しげひさ)、4代忠興(だたおき)の頃のことは史料が少なく分からないことがありますが、5代実久(さねひさ)の頃、国内にあっては肝付氏、新納氏など国外では伊東氏、相良氏の勢力が強く、守護職の勝久(かつひさ)は国政を実久に任せていました。その後、勝久が忠良(ただよし)の子貴久(たかひさ)に家督を譲ると、実久は勝久に背きましたが忠良により鎮圧されました。勝久は一時貴久に守護職を譲りましたが、再び守護職復帰を望み、実久と共に忠良、貴久親子と戦い、勝久は守護職に復帰します。その後、勝久と実久との戦いが起り、勝久は実久に敗れました。この戦いにより実久の勢力は大きくなりましたが、天文8年(1539)に忠良、貴久親子に敗北し、従うことになりました。  6代義虎(よしとら)は貴久、義久(よしひさ)の領内の統一、九州制覇に従い貢献しました。愛宕神社の三十六歌仙の絵扁額(出水市立歴史民俗資料館所蔵)は、天正3年(1574)に前関白近衛前久(このえさきひさ)が薩摩に下向した際、義虎の求めに応じて描かれた作品であるとされています。前久は約3か月間、出水の専修寺に滞在しています。  7代忠辰(ただとき)も義久(よしひさ)に従いましたが、島津氏の九州制覇に対し、天正15年(1587)豊臣秀吉が九州征伐のため薩摩に下向すると、忠辰は無条件で出水の諸城を開城し出水領を安堵されました。その後、文禄元年(1592)に秀吉が命じた朝鮮に出兵した折り、命令に背いたという理由で文禄2年(1593)に薩州家は断絶することとなりました。

 

薩州家断絶から江戸時代

 薩州家が断絶すると、薩州家の領地であった出水郡・高城郡(薩摩川内市の一部)は秀吉の直轄領となり、その内、高尾野、野田、脇本、長島は対馬宗氏に与えられた。その後、慶長の役での島津氏の活躍による恩賞として慶長4年(1599)に島津氏に返還されると、義弘の子忠恒(ただつね)は、出水地頭に本田正親(ほんだまさちか)を任命し、領地の復興に当たらせました。義弘も国境の重要な地であると考え、出水に居住し防衛に当たるため、帖佐にあった自宅の門を出水に移築しましたが、関ヶ原の戦い等で実現しませんでした。この門は御仮屋門として出水小学校に残っています。  慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで島津氏は石田方の西軍に付き敗れましたが、慶長7年(1602)に所領を安堵されました。翌慶長8年(1603)江戸幕府が誕生すると、忠恒は島津家18代当主として徳川家康に承認され、初代薩摩藩主となりました。  江戸時代になり薩摩藩は、藩内を収めるために110余りの外城(とじょう)という行政区画に分け、外城衆中(とじょうしゅじゅう)と呼ばれる武士たちを配置し、地方行政と防衛の任にあたらせました。 また、農民支配のために数家族の農家からなる門(かど)に耕地を割り当て、年貢の徴収を行いました。この両制度は薩摩藩独自の制度です。 出水には出水、高尾野の外城が設置され、明暦3年(1657)に出水から野田・長島が分離し、各外城の麓を中心に行政が行われました。  出水は、肥後との国境に位置し、また国外に通じる主要道路である出水筋があるため、国境に野間の関を置きました。この関所の守りの厳しさは、高山彦九郎の「薩摩びと、いかにやいかに、刈萱の関も鎖さぬ世とは知らずや」の文に表れています。  農業政策では、出水で大規模な水田開発が行われました。宝暦年間(1704~1711)に藩主島津吉貴(よしたか)の命により作られた五万石溝の工事や江戸時代初期から幕末にかけ遠浅の海を農地に変えるために7回もの干拓工事が行われ、約1,500ヘクタールの農地ができました。
 

幕末から太平洋戦争まで

 嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航したことをきっかけに、幕府の権力の低下が露呈することになり、薩摩・長州藩を主とする雄藩が討幕に立ち上がり、明治元年(1868)に明治政府が誕生しました。明治政府の急激で強硬な政策の中で、不平が募った士族達は、明治10年(1876)2月に薩摩の士族を中心に九州各地の士族4万人が西郷隆盛を擁して反乱に立ち上がりました。明治政府は官軍6万人を出兵させ、出水の士族も西郷軍として出兵し、出水でも矢筈岳や麓において大規模な戦いが繰り広げられましたが、同年9月に西郷隆盛が鹿児島の城山で自害し、官軍が勝利しました。(西南戦争) 海軍出水航空基地は、第三次海軍軍備拡張計画によって昭和12年に畑、山林、宅地など約百ヘクタールの土地の買収が始められ、昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まると高尾野方面にも拡張され、基地の面積は、3百ヘクタールにも及びました。昭和16年8月中旬に本格的な戦争準備が開始されると、第二航空戦隊の艦上攻撃機隊が真珠湾攻撃の準備のために訓練を行いました。この部隊は空母「蒼龍」・「飛龍」に収容され、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に参加しました。  その後は、練習航空隊の出水海軍航空隊が昭和18年4月1日に開隊発足しました。 昭和19年2月1日には、人吉航空隊出水分遣隊が飛行機の整備教育を行うために高尾野町下水流に置かれ、同年8月15日に第二出水海軍航空隊として独立開隊しました。また、10月には戦局の悪化に伴い出水で763航空隊(銀河部隊)が開隊しました。昭和20年3月には実戦部隊と共存していた訓練中の甲飛13期練習生は、光州に移動したため、出水基地は、戦闘部隊の基地として利用されるようになりました。 昭和20年2月に日本海軍は第五航空艦隊を編成し、出水には762航空隊の攻撃405・406飛行隊が配置され、昭和20年3月18日以降特別攻撃が始まり、散華された特攻隊員は200余名と言われています。 出水基地への空襲が始まったのは昭和20年3月18日、大川内地区の上空から侵入したグラマンによって飛行場施設や兵舎に甚大な被害を受けました。4月17・18日には爆撃機による攻撃で格納庫・滑走路などに致命的な損害を受け、付近の民家も被爆し、多数の死者を出しました。同月21・22日には油脂爆弾・時限爆弾の攻撃により、基地は壊滅的な被害を受け、その後も空襲は続きましたが、8月1日の出水アルコール工場の爆撃を最後にアメリカ軍の空襲は終わりました。

お問い合わせ先

文化スポーツ課

出水市緑町1番3号2階

電話:0996-63-2108

FAX:0996-63-1331

メール:bunkazai_c@city.izumi.kagoshima.jp

このページに関するアンケート

このページの情報は役に立ちましたか?
このページの情報は見つけやすかったですか?
ご意見がありましたらご記入ください
ページの先頭へ